スペシャルティコーヒーという「おいしさの発明」
コーヒーのあたらしいおいしさ
軽快な音を立ててコーヒー豆が挽かれた途端、甘いバターのような香りがふわりと広がり、湯をそっと注ぐとふっくらと粉が膨らむ。抽出を終えた淡い琥珀色のコーヒーを口に含んだ瞬間、シルクのような感触が舌の上をなめらかに滑り、しっとりとした心地よい重量感が全体を包み込む。ブラウンシュガーを思わせるしっとりとした甘さが口全体を戯れ、気がつくとブドウやダークチェーリー、グレープフルーツのような明るく透き通った酸が、_琥珀色の液体にカラフルな印象を与える。賑やかな酸が口の中を過ぎ去ったあと、カカオのような甘さが長く静かな余韻となっていつまでも幸福感に満たされる。一連の合奏の通奏低音となっているのは、呼吸をするたびに鼻腔を通り抜けるフローラルなフレーバーであり、それは、ほんの数秒の経験をまるで永遠のもののように感じさせる──
私たちは、素晴らしいスペシャルティコーヒーの経験を表現したこうした言葉に、しばしば出会うことがあります。例えば、カルチャー誌やファッション誌のコーヒー特集では、スペシャルティコーヒーを特徴づける「酸味の質」や「舌触り」が、パステル調でハイキー気味な写真に添えられて、供されることがあります。あるいは、コーヒー豆を買いに訪れた店先で、こうした言葉を見かけることがあります。私たちはそれを読み、まだ体験したことのない未知のコーヒーに想いを巡らせることができます。 スペシャルティコーヒーに馴染みのある人であれば、こうした表現はとても身近なものに感じられると思います。その多くは直喩(~のような、というたとえの表現)によってコーヒーの個性が描かれます。スペシャルティコーヒーのおいしさとは、実際にその直喩どおりの(そしてそれ以上の)豊かで複雑な味わいであることということは、多くの人が感じていることでしょう。
このように表現されるスペシャルティコーヒーの魅力は、ステレオタイプなコーヒーのイメージをまるごとひっくり返してしまうような驚きに由来しています。かつて村上春樹がセロニアス・モンクについて記したある情景が端的に示すような、ある種の「ブラック・コーヒー」の典型的なイメージは、スペシャルティコーヒーの印象とは対極にあるといえるかもしれません。
村上春樹・和田誠『ポートレイト・イン・ジャズ』新潮社、2004年
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濃いブラック・コーヒーと、吸いがらでいっぱいになった灰皿と、JBLの大きなスピーカー・ユニット、読みかけの小説(たとえばジョルジュ・バタイユ、ウィリアム・フォークナー)、秋の最初のセーター、そして都会の一角での冷ややかな孤独──そういう情景は、僕のなかでは今でもまっすぐにセロニアス・モンクに結びついている。
JBLのスピーカーから流れるモンクの難解なピアノを、眉間に皺を寄せながらゆっくりと啜る「苦くて大人な飲み物」、それがコーヒーのイメージでした。こうした「濃いブラック・コーヒー」では、その苦さ(それはときにコクとして理解される)こそが醍醐味である、という理解は、とくに日本で広く根付いています。実際に、日本スペシャルティコーヒー協会(SCAJ)による、会員を対象にした市場調査では、「日本人には酸味がネガティブなイメージが強いことが分かる」「日本では『コーヒーは苦いもの』とインプットされてきた側面がうかがえる」との報告があります。さらに、多くのロースターがスペシャルティコーヒーの啓蒙・教育活動を実施していることも報告されています。近年、多くのコーヒーショプがワークショップやカッピングセミナーを行っていますが、それはスペシャルティコーヒーを楽しむにはある種の「啓蒙活動」が必要であることを示唆しています。
スペシャルティコーヒーには啓蒙が必要
啓蒙が必要であることには理由があります。たとえば、スペシャルティコーヒーを生まれて初めて口にした時の感想は、「濃いブラック・コーヒー」とはまるで対照的な、「苦くない、爽やかで甘い飲み物」という印象に多くを負っていることが多いのではないでしょうか。「こんなコーヒーがあるんだ!」という発見は、多くの人がケニアやエチオピアのコーヒーに出逢って経験をしていると思います。このような発見をするためには、ガイドが必要です。つまり、良質な酸とそうではない酸味の区別です。おそらく多くのコーヒーのワークショップでは、品種や精製方法、産地の特徴から焙煎抽出に至るまでのさまざまな観点から、良質な酸をもつコーヒーの条件を導いてくれるでしょう。こうしたガイドは、おいしさを発見するために大いに機能します。酸味のネガティブなイメージを払拭するために、良質な酸の根拠を示す必要があるからです。
しかし、ここで少し立ち止まって考えてみる必要があります。これまで繰り返し述べてきた「おいしい」ということは、一体、何に立脚しているのでしょう。「おいしい」の条件はきわめて主観的であるにも関わらず、なぜかくも皆一様に「おいしい」と感じることができるのでしょうか。たしかに、それはたゆまぬ生産者の努力によって高品質なコーヒーが私たちに届けられているからだ、と考えることもできます。しかし、スペシャルティコーヒーによって、コーヒーを消費している私たちの嗜好に、(広義の意味での)おいしさのパラダイムシフトが起きているのだとしたら、このように問うべきかもしれません。私たちは、どのようにしてスペシャルティコーヒーを「おいしい」と感じることができるのか、と。
このことを考えるにあたって、まずふたつのことを明確にする必要があるでしょう。ひとつめには「スペシャルティコーヒーとはなにか」そしてふたつめには「おいしいとはなにか」という問いです。まずひとつめの問いについて。SCAJによれば、スペシャルティコーヒーは以下のように定義されます。一部を抜粋してみましょう。
http://www.scaj.org/about/specialty-coffeeより一部抜粋(2015年9月30日アクセス)
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消費者(コーヒーを飲む人)の手に持つカップの中のコーヒーの液体の風味が素晴らしい美味しさであり、消費者が美味しいと評価して満足するコーヒーであること。 風味の素晴らしいコーヒーの美味しさとは、際立つ印象的な風味特性があり、爽やかな明るい酸味特性があり、持続するコーヒー感が甘さの感覚で消えていくこと。 カップの中の風味が素晴らしい美味しさであるためには、コーヒーの豆(種子)からカップまでの総ての段階に於いて一貫した体制・工程で品質管理が徹底している事が必須である。(From Seed to Cup)
ここでスペシャルティコーヒーの定義の大前提になっているのは、「コーヒーの液体の風味が素晴らしい美味しさ」であり、「消費者が美味しいと評価して満足するコーヒーであること」です。そのうえで、こうしたコーヒーを実現するための一貫したプロセスの徹底が条件づけられています。すると、では「素晴らしい美味しさ」とはどのようなものなのでしょうか。
SCAJによるおいしさの定義
SCAJは上記の定義に続いて、おいしさを測るための尺度の項目を細かく挙げています。それは、「カップ・クオリティのきれいさ」「甘さ」「酸味の特徴評価」「口に含んだ質感」「風味特性・風味のプロフィール」「後味の印象度」「バランス」です。つまり、「このような観点からコーヒーを味わってみよう」という評価項目が提示されているのです。
たとえば、ある映画作品がとてもおもしろかったと感じたとき、どうしてその映画がおもしろかったのかを友人に話をする際に、「役者の演技」「カメラワーク」「ストーリー」「音楽」「編集」「美術セット」といった観点から、その映画のおもしろさを説明することができます。いわばその映画のおもしろさを「分解」しているのです。というより、むしろ分解をすることによっておもしろさが浮かび上がってくるのです。そうして、ぼんやりとした印象ではなく明確な評価を可能にします。 同じように、コーヒーも「分解」することによって初めて、そのおいしさを評価することができるのだと考えられます。これまで「コクがある、香ばしい」といった曖昧な表現しかすることのできなかったコーヒーに、「分解」の機会を明示したこと、それこそがスペシャルティコーヒーの特徴です。この段において、はじめて「おいしいとはなにか」を、みんなで話し合うことができるようになりました。コーヒーの品種、産地、精製処理、焙煎、保存方法、抽出方法に関する様々な情報は、すべて「分解」の上に成り立っているのです。
スペシャルティコーヒーを「おいしさの発明」という観点から考える
つまり、「おいしいとはなにか」それは「分解の仕方」に由来しています。「どのようにしてスペシャルティコーヒーを『おいしい』と感じることができるのか」ということを考えるとき、「コーヒーの印象に対して分解の仕方を与えたこと」は重要なポイントだと考えられます。
単にスペシャルティコーヒーを「高品質な所与のおいしさ」として味わうのではなく、どのようにして私たちが「おいしいと感じているのか」を考えることは、コーヒーを楽しむうえでのとても大事なことかもしれません。最終的に「おいしい!」と感じられるのは、結局、私たちひとりひとりに他ならないからです。
本連載では、スペシャルティコーヒーを「おいしさの発明」という観点から考えていきます。コーヒーの長い歴史のなかで、スペシャルティコーヒーの「おいしさの発明」はどのような役割を果たしているのか、また、そのしくみがどのようになっているのか、という謎を「おいしさの分解の仕方」をキーワードに探っていきます。
WRITER
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THE COFFEESHOP
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